清水宏 Wikipedia

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清水宏 (映画監督)

清水 宏(しみず ひろし、1903328 - 1966623)は、昭和期の映画監督。作為的な物語、セリフ、演技、演出を極力排除する実写的精神を大事にし、「役者なんかものをいう小道具」という言葉を残している。

生涯

松竹蒲田入社まで

1903328日、静岡県磐田郡山香村西渡にある母の実家で生まれる。両親が不仲だった為、天竜川の上流にある母の実家で祖父に育てられる。父は古河鉱業の社員、母は山村で林業を営む大地主の大橋家の娘と言われている。遠縁に松竹ヌーヴェル・ヴァーグの編集者の浦岡敬一がいる。

村の小学生の頃は腕白で成績が悪く、その為に東京芝区浜松町に住む父親のもとに引き取られる。1910年、芝区桜川町の神明小学校の2年に編入、同級生に映画監督の滝沢英輔前進座の俳優の河原崎長十郎がいて、清水は餓鬼大将だったという。

父の希望で浜松の中学校に入り、在学中は水泳部の選手だったが、悪友たちと賽銭泥棒や芸者遊びに興じていた。卒業後の1920、清水によれば、北海道大学農学部に入学するが、学業が退屈なので1年で中退。当時の映画関係者には、この学歴を疑う意見が多い。

帰京後の1921年、浅草で映写技師の生活をする。国活角筈撮影所の撮影技師、鈴木照夫の紹介で原田三夫の助手となる。科学雑誌の分野を開拓した原田三夫は、科学教育を目的に映画製作を始めた頃だった。

1922年、原田の「学芸活動写真社」は解散、清水は鎌倉名越に移った原田の住み込み助手となる。

松竹蒲田時代

192211月頃、原田を介して栗島すみ子の口利きで松竹蒲田撮影所に入社。池田義信監督に助手として付くが、先輩の助監督に成瀬巳喜男がいた。翌1923年、小津安二郎が松竹に入社し、清水と小津は終生の親友となる。関東大震災のため、蒲田のスタッフは、1923年の下半期は京都に移る。

19246月、蔦見丈夫とともに監督に昇進、7月、入社して2年も経たずにまだ21歳の若さで『峠の彼方』で監督デビューを果たす。当時においても異例の若さであり、新人時代は、山村や田舎の田園風景を背景にして若者たちの失恋と恋の衝動を多く描いて、センチメンタルな作風だったと言われている。山の話ばかり撮るため、「山監」と呼ばれたこともあった。

19249月、前蒲田撮影所長の野村芳亭の京都行きに従って、柳さく子大久保忠素らと下加茂撮影所に移った。下加茂に入社したばかりだった田中絹代が、清水の監督した『村の牧場』(1924年)で主演デビューを果たし、その後、田中絹代と恋に落ちて結婚しようとする。スター女優になりかけていた田中絹代と公に結婚という訳にいかず、城戸四郎撮影所長から「試験結婚」を勧められて1927年に同棲するが、喧嘩が絶えず、1929年に破局した。1930年、清水は伊豆下田の名妓と結婚するが、子どもはいなかった。

仕事面においては、19257月に蒲田に復帰し、若きメロドラマ作者として将来を嘱望された。作品歴においては、メロドラマのほか、流行した新聞小説の映画化、旅芸人や放浪者など旅する人々を描いた小さな物語、ペーソスのあるコメディなど多様な作品を量産して精力的に働いた。松竹一の早撮りの多作家となり、デビュー10年目にして既に100作品近くの映画を監督した。撮影所入社以来、多忙をきわめ、当時、「急がされると良いものができる」とまで言われた。

1930年代に入って昭和時代となった頃、親友の小津安二郎とともに、1930年代のソフィスティケーションされた松竹蒲田のモダニズムを担った。清水と小津は年齢が同じで、二人ともやんちゃでモダンボーイだった。この時期の清水のスマートで都会的なモダニズムの代表作に、北村小松脚本で岡田時彦及川道子が主演した『恋愛第一課』(1930年)などがある。

1930年代初め、流行新聞小説を映画化したメロドラマで商業的に成功したため、若手監督として撮影所長の城戸四郎からフレッシュさを認められ、手際のいい商業映画の監督として重宝がられた。

特に、『大学の若旦那』(1933)に始まる「大学の若旦那シリーズ」で明るく朗らかな笑いを提供し、清水は、このシリーズの成功によって松竹現代劇の娯楽映画を代表する監督となった。主演には、清水と体型が似た慶応ラグビー出身の藤井貢があたったが、このシリーズは、清水のオリジナルなアイデアであり、スポーツの花形選手でもある下町の老舗の若旦那が、恋とスポーツに活躍する朗らかでスマートなコメディである。シリーズ全般を通して、坂本武吉川満子武田春郎三井秀男ら松竹の脇役俳優たちが、朗らかで暖かい笑いをみせて、非常に面白い映画として当時の観客を喜ばせたと言われている。

都会の若者たちの商業映画を撮る一方で、清水は、早くから伊豆など自然のロケーションを好んで、山村や港町を舞台に旅人たちへの共感や感傷、現世の倦怠感や無常を叙情的に描くオリジナルの小品を作っていった。特に、主人公は、モダンで粋な感じの流れ者の女が多く、その流転する人生のはかなさを見守るように描いた。

松竹大船時代

日本映画界が本格的にトーキーの時代を迎えた1936、『有りがたうさん』を発表。伊豆の街道をバス1台で走りながら、その中でとられた全編ロケーションでとる手法は、「実写的精神」と呼ばれ、絶賛を浴びる。それ以来、自然の情景の中で演技を発展させる手法を徹底的に追求することとなる。

清水は作為ではない、あるがままなものを好んだため、子どもや新人俳優、大部屋俳優、素人を好んで使った。その流れで、坪田譲治児童文学を映像化した清水は作為ではない、あるがままなものを好んだため、子どもや新人俳優、大部屋俳優、素人を好んで使った。その流れで、坪田譲治児童文学を映像化した『風の中の子供』(1937)、『子供の四季』(1939)の中で彼の演出技法は、効果的だった。

この2作品の児童映画の成功から、以降、清水は、子供をうまく使う監督として有名になる。また、大人の役者の芝居くささを嫌い、伊豆を中心に自然な情景を好んだ。

当時、清水作品の子ども達の生き生きとした姿に驚いた映画評論家が、その演出の秘密をきくと、清水は、餓鬼大将のように遊んでやるのさ、と答えたという。特に、爆弾小僧(横山準)、突貫小僧(青木富夫)らやんちゃな子役を可愛がった。

1939年、36歳で松竹大船の筆頭監督となる。1937